仏教エピソード⑮「怒りの炎」

お釈迦さんの教えに共感し、仏弟子になることを決めたバーラドヴァージャさん。

しかし、その事に腹を立てた人達がいました。実は、バーラドヴァージャさんは元々、何人もの弟子を持つ宗教家だったのです。

突然、師匠を無くした元弟子のアコーサさんが、お釈迦さんの所にやってきました。彼は怒りのままに、お釈迦さんに暴言を吐き続け、激しく責め立てました。

エピソード(雑阿含経巻42ー1152「賓耆迦経」)

お釈迦さんが祇園精舎にいた時のこと。アコーサという青年がお釈迦さんを訪ねてきました。彼はお釈迦さんと顔を合わせるや否や、怒りのままに、暴言を吐き始めました。

どうやら彼は、バーラドヴァージャさんの弟子だったようで、師がいなくなってしまったことに腹を立てているようでした。

責め立てる彼の言葉を、お釈迦さんは黙って聞いていました。

しばらくして、彼が全てを言い尽くしたのを見て取り、お釈迦さんは静かに、話し始めました。

「アコーサさん。何か自分の記念日に、親族や親しい友人を家に招くことがありますか?」

「そんなことあるに決まってんでしょ!」

予想外の問いに、アコーサさんはぶっきらぼうに答えました。お釈迦さんの問いは、更に続きました。

「そんな時、やっぱり食事を振る舞うのですか?」

「自分が祝いの席に招待しているんだから、食事でもてなすのは当たり前だろ」

「ならば、招待した方達のために用意したその食事を、もし彼らが食べてくれなかったら、それは一体どうしたらいいだろうか?」

「そりゃあ、食べてくれなかったら、その食事は、俺がどうにかしなきゃいかんでしょうよ」

お釈迦さんは、頷きました。

「そうですね。私もあなたの用意した食事はいただけません。怒りと暴言という名の食事は。そしたら、この怒りと暴言という食事は、一体誰の物となるでしょうか?」

「私の物」と言わざるを得ないアコーサさん。しかし、彼はまだ納得するわけにはいきません。

「お釈迦さん。それは受け取らないといっても、とりあえず、お互いにこうして言いたいことを言ったわけですから、つまり言葉を交わしたということですよね。それならば、暴言も交わしたということにはなりませんか?」

「暴言には暴言で返し、怒りには怒りで返し、殴られれば殴り返し、やられたらやり返す。これがお互いということです。これが交わすということです。私はあなたの言葉は受けましたが、怒りや暴言は受けていないのです」

「……。ならばお釈迦さんは、今怒っていないのですか?」

その言葉を聞いたお釈迦さんは、最後に詩をもって、このように説きました。

「罵声・暴言・呵責を用い、とことん相手を言い負かす。

それで勝ったと愚者は思う。

真に勝利をつかむのはただ忍耐を知る者のみ。

怒らぬことによってのみ、真に怒りに勝つと知る。

怒りに怒りを返す者、更に悪しき事があり。

怒りに怒りを返さぬ者、実に二つの勝利あり。

他人の怒りをよく知って、己を静める熟慮者は、他にも勝ち、また己にも勝つ。

この自と他の両者を癒す者を、愚者だと勝手に決めつける。法を知らざる人々は」

その言葉を聞いた途端、アコーサさんは恥ずかしくなりました。

自分の先生であったバーラドヴァージャさんが、お釈迦さんの弟子となった理由を納得した彼は、お釈迦さんに謝罪し、説法を聞き、喜んで帰っていきました。

メッセージ

このエピソードを読んだ時、私はまずアコーサさんに少し同情しました。慕っていた自分の師匠が急にいなくなってしまったわけですから。

しかもその理由が他の師匠についたと聞いたら、怒りを覚えるのも無理はありません。

ただし私だったらお釈迦さんじゃなくて、見捨てていった師匠のほうに怒りをぶつけるとは思いますが。

しかし、怒りというのは一度火がつくと厄介なものだとつくづく思います。正当な理由があろうとも、逆恨みにしろ、八つ当たりにしろ、なんであれ冷静さを失ってしまいます。

自分を見失い、いつの間にか自分でなく、怒りが主役になってしまいます。

怒りの炎はそうやって自分を飲み込んでしまい、そして、他人をも飲み込み、傷つけようとします。

私達の身にも、そんな他からの怒りの炎が迫ってくるということがありますが、その時にこちらも応戦してしまうと、お互いが大火傷してしまいます。

時にはそれが取り返しのつかない事になってしまうことさえあります。

よく考えると、怒りの炎に怒りの炎で応戦すれば、それはまた大きな炎になって、お互い巻き込んでしまうのは当然。結局は自分が苦しんでしまいます。

そういうことにならないためには、決して怒りの炎を交わさない。受け取らない。受け取らなければ、その怒りの炎は自分にはやってきません。

そしてそれは、怒り出した本人のものとなる他ありません。というのは、そもそも怒りの出火元は、自分以外に他ならないのですから。

そう考えると、例え他者から怒りの炎を向けられたとしても、怒りが現れるのは、他でもない自分自身からだということも教えてくれます。

最後のお釈迦さんの詩は、私にとって耳の痛い言葉でもありますが、尤もなことだと思います。

怒りの炎には、怒りの炎を止めることによってしか勝てません。怒りの炎を防ぐには、やはり忍耐を知ることから始まるのでしょう。

怒りは自分を見失い、周りを見えなくしてしまいます。

忍耐は、怒りの炎が主人公にならないようにしてくれます。そうやって怒りというもの知っていく。

そこからまた新たな視点が生まれてくるのではないかと思います。

そしてその新たな視点も心の潤いの一つとなるのではないでしょうか。

2014年5月

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