仏教エピソード

第23話「縁りて起こる」

これがあれば、これがある。これ生ずれば、これ生ずる。
これがなければ、これがない。これ滅すれば、これ滅する。
ウダーナヴァルガ


皆さんは「縁起」という言葉をご存知でしょうか?
縁起が良い、縁起を担ぐといったフレーズで、今ではよく耳にします。
元々縁起は仏教の言葉だったのですが、時代を経て世間一般で使われる縁起の意味は変わっていきました。
現代の縁起の意味は、仏教で用いられる本来の縁起の意味と大分異なります。
では本来の仏教的な意味で縁起とは一体どういうことなのでしょうか?

これがあれば、これがある。これ生ずれば、これ生ずる。

この言葉は仏教の縁起の意味を端的に表しています。仏典では、お釈迦さんが菩提樹の下で悟りを開いた後に初めて言葉に表したものとして記されています。
また縁起という文字を分解すると、今回のタイトルと同じく「縁(よ)りて起こる」と読むことができます。
これに縁(よ)ってこれが起こる。これという原因に縁(よ)って、これという結果が起こると言った方がわかりやすいかもしれません。
つまり縁起とは、単純にいえば原因と結果、因果関係を示す教えです。
もちろん縁起も科学と同じく、根拠のあるもの、証明できることを扱います。
因果関係というと、科学や学問が発達した現代では当たり前の事ですが、その当たり前を見直すことで大切なことが見えてきます。
具体的な例として、私は毎日お茶を飲んでいますが、これを縁起の教えに当てはめて考えてみましょう。
まず、結果として、私がお茶を飲めるのはなぜなのか?
原因としてお茶をいれたから、今ここにお茶があります。
しかしこのお茶も魔法のように何もないところから出てくるわけではありません。お茶をいれるには、もちろん茶葉が無くてはつくれません。
また茶葉もどこかの店で仕入れなければなりません。更にお店も茶葉を作る農園から仕入れます。もちろん仕入れるからには、運び手も必要となります。
またその茶葉も農園でパっとできるものではありません。加工もしなければいけません。その前にお茶の木から摘み取らなければいけません。
お茶の木も年月をかけて種から育ちます。種が育つには、土や水、日光も欠かせません。栄養のない土では育ちませんから、微生物の存在も欠かせないでしょう。
種ができるのに受粉する必要がありますから、虫の存在も欠かせないでしょう。もちろん成長を見守ってくれる人の手だって必要です。
様々な原因が複雑に関わって種は成長し、お茶の木という結果をもたらします。
茶葉の他にも考え付く原因は山ほどあります。
お茶を飲むには湯呑が必要です。その湯呑にも様々な原因があります。
お茶を入れるにはお湯が必要です。
お湯を沸かすには? 電気ケトルを使うには? 電気を通すには? 電線はどこから?
運ぶのにも車が必要です。
車を動かすには? ガソリンを作るには? ネジ一本つくるのでさえ。
それを下の図に纏めてみました。5分程で簡単に思いつくだけ書いた図です。
図1
私がお茶を飲むという動作一つとっても、その原因を辿ると、そこには数え切れない関係性があることがわかってきます。
私がお茶を飲むということは日常の中のごく当たり前の行為です。
そしてまた、私がお茶を飲むためにはお茶が必要ということも当たり前。お茶を作るには茶葉が必要なのも当たり前。お湯がいるのも当たり前。
しかし、その当たり前をよくよく考えてみると、私達は様々な関係性の中で生きているということに気づかされます。

これがなければ、これがない。これ滅すれば、これ滅する。

それでは反対に、もしこのような様々な関係性のうち、何か一つでもなかったとしたらどうでしょうか?
私がお茶を飲む行動一つとっても、数え切れないほどの原因がありました。
しかしよく考えてみると、その関係性のうちたったひとつの原因が欠けたとしても、結果として目の前のお茶は存在しなくなります。
その時、その場所にあるお茶に代わりのものなんてありません。
それを実感するには、自分を例に考えたほうがいいかもしれません。自分と言う存在も何の関係性もなく生まれてくるものではありません。
大抵、私達は自分が今ここに生きて存在しているのが当たり前に感じています。しかし単純に考えても、そこには様々な関係性があります。
自分がこの世に生まれてくるだけでも、両親という二人の存在は必要不可欠です。そして両親にも、それぞれ二人の親がいます。
自分1人に、両親が2人、祖父母が計4人。そして曾祖父母が計8人。四代遡れば計16人。
十代遡れば1,024人。二十代遡れば1,048,576人。三十代で1,073,741,824人。
図2
この内の一人欠けても、自分という人間は生まれてきません。
自分がなぜ生まれたのか? それは他の誰かが繋げてくれたからに違いありません。
今ここにいる自分が生まれるだけでも、それだけのつながり、関係性があればこそなのです。
今ここにいる私という存在は数限りない数多もの関係性があって成り立っています。
一杯のお茶や食べ物もそうです。家族や恩師も、好きな人や嫌いな人でさえ。
その他何もかも全部含めて、それらの関係性のうち何か一つ欠けても、今この時にある「私」は成り立ちません。たったの一つで・・・・・・。
当たり前と思っているものを、よくよく考えると実は有り難い。様々な関係性があって初めて自分がいるということに気づかされます。
因みに「ありがとう」という言葉は、このような仏教の教えを背景に生まれた言葉です。
私達は当たり前と思うものに対して、自然と目が向かなくなってしまいます。だからついつい気づかなくなったり、忘れてしまったりしてしまいます。
しかし、そんな当たり前の中にこそ有り難い事、大切な事が隠されているのではないでしょうか。
福田智彰

2015年4月