仏教エピソード㉘「琴の音色」

エピソード(雑阿含経巻第12-1169)

お釈迦さんがコーサンビーのゴーシタ精舎にいた時の事です。精舎にはたくさんの弟子達が集まり、お釈迦さんの話を聞いていました。その話の中でお釈迦さんは、とある昔話を語りました。

「昔むかし、あるところに一人の王様がいました。ある日、王様の耳元に、何とも素晴らしい音色が聞こえてきました。

今まで聞いたことが無いほど綺麗な音色に、王様は聞きほれていました。そしてその音が聞こえなくなると、王様はすぐ近くにいた大臣に言いました。

『うむ。実に素晴らしい音色だった。おい! あれは一体、何の音だったのだ?』

『王様。あれは琴の音かと思われます』

『ふむ。ならばその琴の音を持ってまいれ』

『承知いたしました』

大臣はすぐさま部下に命じ、琴を持ってこさせました。しかし、王様は何やら不機嫌そうに言いました。

『なんなのだ。これは』

『王様。これが琴でございます』

『私が必要なものはこれではない』

『ですから王様。これこそが琴であって、あの音色を作り出すのですよ』

『このようなものは要らぬ。私はあの音色を持って来いと言ったのだ』

『……と言われましても、王様。琴の音色というのはですね。つまり、このように支柱や胴と言われる部分があって……、また弦というものが、こうして張ってありまして……、そして音を調整する糸巻きなどですね。

いろんなものが組み合わさって、この琴という楽器があるわけでございます。そして更に言えば、その琴を弾くためのつめも必要です。それに、それ相応の演奏者も必要なわけです

それらがうまく組み合わさって初めて、あの素晴らしい音色が現れるのですよ』

『……私はあの素晴らしい音色を持ってこいと言ったのだ』

『王様。音色というものは、自分自身を通り過ぎていき、そしてまた消えていくものです。ですから、さっき王様がお聞きになった、あの素晴らしい音色も持って来たりできるものではございません』

『あぁ……。ならば、お前のよこした偽物に用はない。この琴と言うものは嘘偽りだ。しかも私達を惑わし、執着させる……』

そう言って王様は、琴をたたき割ってしまいました。

『今、バラバラになったこれを持って行け。そして四方八方にぶちまけてまいれ』

命を受けた大臣は、更に粉々にしてから、あちこちにばら撒き捨てに行きました」

お釈迦さんは昔話を語り終えると、最後にこのように言いました。

「琴の音は確かに聞こえていながら、次の瞬間には……ない。私達の五感や心で感じることも含め、この世の全ては、様々な条件や原因によって生じ、変化し、また滅していく。

あらゆるものは移り変わりゆく。永遠に変わらないものなどないのです。

そうと知っているにも関わらず、私達はこう言ってしまうのです。これが私(我)、これは私の物(我所)と。しかし、これらも確かに感じながら、次の瞬間には……ない。

弟子達よ。このことをよく観察し、参究なさい」

メッセージ

あらゆるものは移り変わりゆく。無常(常なるものは無い)。それを自分に引き付けて考える教えに「無我」という教えがあります。

つまり、あらゆるものの中には、当然自分自身も含まれています。私(我)も生じ、変化し、そして滅していくというわけです。

私にとって無常の教えは、否が応でも認めざるを得ない教えでした。なぜなら自然から、学問から、あらゆるものから、それを見せつけられるからです。

しかしそれが、いざ自分の事となると受け入れがたく感じました。

その理由は、私の場合「無我」という言葉の受け取り方にありました。一般的に「無我」というと「我が無い」と受け止められがちです。私自身も過去、そうように受け止めていました。

しかし「我が無い」「私なんて無いんだ」となると、どうしても納得がいきません。

「私(我)があることが全否定なのか?」

「私(我)の意志は無駄なのか?」

「私(我)を無くして教えに没頭すればいいというのか?」

「現に私(我)と感じている私(我)は、どう説明するんだ?」などなど。

ひねくれ者の私には、こうして「無我」ついて様々な疑問が生まれてきました。

しかし仏教を学んでいくと、それは誤解であることに気がつきました。そのきっかけは、仏教書の中でよく見かける「非我」という言葉でした。

無我は非我とも訳されます。単純に考えると「無我=非我」で用いられるわけです。

非我という言葉は「我に非ず」と読みます。無我という言葉は「我が無い」と読みます。しかし無我は「我で無い」とも読むことができます。

たった助詞一つの違いですが、「我が無い」と読んでしまうと、非我との意味と通じなくなってしまいます。

「我 無い 我に非ず」

「我 無い 我に非ず」

つまり無我とは決して「我(私)が無い」という意味ではありません。では我(私)があるのかと言われると、非我である以上、そうとも言えないわけですが。

ではどういうことなのか? その疑問には結局、「自己をみつめる」ことで見出していくしかないのでしょう。

自己「よく観察し、参究なさい」ですね。

今回を含め、経典でのお釈迦さんの話を読むと、「無我とは自己を見つめること」だと理解したほうが、私は誤解が少ないと考えます。

自己を見つめる、私自身の体験から感じる「無我」という教えの受け取り方。以下、合わせてお読みください。

2016年6月

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