仏教エピソード

大事な当たり前|仏教エピソード第35話

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教 (しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうごい、ぜしょぶっきょう)
~七仏通戒偈 (しちぶつつうかいげ)

是諸仏教(是れは諸々の仏の教え)とあるように、上記の七仏通戒偈は、お釈迦さんだけではなく、仏教で代々共通して保たれ、仏教の思想が要約された詩偈とも言われています。
その証拠に、お釈迦さんの言葉として、最古層の経典であるダンマパダ(法句経)にも記されている他、様々な仏典の中で目にすることができます。

私にとって七仏通戒偈は、噛めば噛むほど味がでる、意味が染み出てくる言葉です。何かきっかけがある毎にまさしく(意)味が変わる言葉でした。

よって、翻訳のしようがいくつでもあるので、今回は故意に翻訳を用意していません。
その代りに、これから述べる私自身がこの言葉から感じた印象の変化を今回の翻訳とさせて頂きます。

七仏通戒偈の第一印象

私自身がこの七仏通戒偈の言葉に一体どこで出会ったのか、詳しく覚えていません。
本で読んだのか、はたまた誰かから聞いたのか。
漢文で書かれていますから、おそらく何か意訳されたものを読んだのだろうと思います。
何にせよ、私にとってこの言葉は、七仏通戒偈という有名な言葉があることを知っただけで、それほど気にも留めない言葉でした。
悪い事をするな(諸悪莫作)
善い事をしなさい(衆善奉行)
自らの心を浄くせよ(自浄其意)
これが仏教だ(是諸仏教)
「そりゃそうだ。当たり前の事。どこにでもありそうな標榜(スローガン)だな……」
それが七仏通戒偈の第一印象でした。 

道林禅師と白居易のエピソード

私が七仏通戒偈に興味を持つようになったのは、道林禅師(どうりんぜんじ)と白居易(はくきょい)との話を知ってからでした。
この二人のやり取りの中で七仏通戒偈の最初の二句、諸悪莫作・衆善奉行が出てきます。
白居易という人は、仏光如満(ぶっこうにょまん)禅師の弟子です。弟子といってもお坊さんではなく、有名な詩人として唐の時代に活躍していました。
道林禅師と出会った時、彼は杭州(浙江省)の長官の職についていました。
要するに、エリート中のエリートで、しかも詩の世界においても詩仙と呼ばれるほどの才能を持っていた知る人ぞ知る人物です。
一方、道林禅師は、鳥窠(ちょうか)禅師とも呼ばれています。窠とは、鳥の巣のことです。
嘘か真か、長松の枝の上に棲んでいたことから、そのように呼ばれていたようです。
そのような逸話を持つ道林禅師の下に、エリート官僚であり詩仙でもある白居易が訪ね、このような問答をしました。

問答

居易「仏法の根本的に重要な所とはどういうことでしょうか?」
道林「諸悪莫作、衆善奉行」(七仏通戒偈の前二句)
居易「そんなことは三歳の子供でも言えることでしょう」
道林「たとえ三歳の子供が言えることでも、齢八十の老人にも行えないことなのですよ」
そして白居易はお拝をして帰っていきました。

言えるが行えない当たり前で大事な所

悪い事はしない(諸悪莫作)
良い事をする(衆善奉行)
これは至極、当たり前のことです。白居易の言うように、3歳の子供でも言えること、知っていることです。
しかし、その当たり前のことを実際に行うのはどうでしょうか。
たとえ3歳の子供が言えることでも、齢80の老人にも行えない。
言うは易し行うは難しとも言いますが、当たり前のことを当たり前に行うことは、実際の所、相当に難しい……、いや、限りなく不可能に近いことなのかもしれません。
大人として子供に注意したことが、ブーメランのように自分に返ってくる。私自身にも子供と接する中で痛烈に感じることがあります。
「そんなの当たり前でしょ」と思うことはたくさんあります。
それでも当たり前だけど、本当に大事だと思うことは、何度も何度も子供に伝えるわけです。
しかしいざ自分を省みて、一丁前に語るその言葉通りに自分自身が行っているのかというと、とてもそうだとは言えません。
当たり前で大事な事。それを完璧にこなすことはやはり不可能であることを痛感します。
だって、忘れてしまうこともありますから。
例えば「いただきます」や「ごちそうさま」の大切さを今の私は知っていますが、ついつい忘れてしまうことがあります。
それを子供に逆に指摘されることもあります。
しかし、そうやって子供を通じて、自分も改めて気を付けようと教えられます。
3歳でも言える当たり前。でも大人でも行うのは難しい当たり前。
「そんなの当たり前じゃないか」とついつい軽んじてしまうことがある当たり前。
しかし、その当たり前はとても大事なこと。だから皆の当たり前になっていくのかもしれない。
当たり前という言葉が私にとってなんだか意味のある、決して軽んじてはいけない、大事な所を指す言葉に変わっていったのは、この白居易と道林禅師の話がきっかけなのです。

諸悪=莫作

七仏通戒偈に関して次なる印象の変化が起こったのは、道元禅師の書かれた正法眼蔵・諸悪莫作の巻がきっかけでした。
そこには「諸悪は莫作なるのみなり」という文言がありました。
「諸悪は莫作なり(る)」のみなり。
単純に読めば「諸悪=莫作」と言い換えることができます。言い換えたところで、訳の分からない言葉かもしれません。

ただ、正法眼蔵を読んでいると、自分の体験の事が思い浮かび、様々なことが結びついたような気がしました。

諸悪について

それはある凶悪事件がニュースになった時の事です。
「どうしてあんなことができるのか」
私は会話の中で、理解ができないという主旨の言葉を聞きました。
人を残虐に殺めたり、故意に大切なものを奪ったりする行動は、どうしてそこまで凶悪なことができるのかと、確かに私も理解に苦しみます。
ただ、私自身はネット・ゲーム依存(ゲーム障害)の経験があり、あの頃の自分の事を思い返すと、とても複雑な感情が湧いてきます。
人間はどこにだって、諸悪という可能性が潜んでいることを、私は自分という人間を通して嫌というほど感じるからです。
依存していた頃の私は、起きてから寝るまで、1日中パソコンの前で、ネットゲーム漬けの毎日を送っていました。
生活は乱れ、気がつくと、起きた時にパソコンの電源をつけずにはいられない、落ち着かない……。そうして内面までもが変わっていく。
なんだか自分自身が壊れていくような、そんな日々を過ごしていました。
自分でも、いい加減、それはまずいことは分かっていました。悪いことだとわかっていました。
しかし止められません。
止めよう、止めようと、何度も我慢しました。止めようと意識する。その最初の一歩ですら、相当な意志が必要でした。
それでも意志の力は長続きしません。結局はやってしまう……。そうして自分のダメさ加減に失望する日々が続きました。
「悪いことをするな」と言うのは、簡単です。しかし「悪い事をしない」ようにするには相当な意志が必要です。
常に意識し、常に我慢せねばならない。しかし、その意志は長続きしません。
まさに、齢八十の老人にも行えないとはこのことです。
ネットやゲームの依存に限らず、このことは、いろんな事柄に当てはまることだと私は考えています。
悪い事をしてはいけない。悪い事をしないようにする。そこには理性という意志が働きます。
自分の理性で、自分の欲望を抑え込まなくてはなりません。コントロールしなくてはなりません。
それはまるで、欲望という獣を操ろうとする動物使いになったようなものです。
依存という欲望は凶暴な獣です。暴れる欲望、それを押さえる理性。それはいつも戦いになってしまいます。そして疲れます。
人間疲れれば、楽な道へ行ってしまうのは当然の事。つまり、欲望の勝ちです。諸悪の元凶の勝ちです。
理性という自分で、欲望という自分を抑えようとする。何度も勝負して、疲れ果て、負けてしまう。その辛さや苦しさを私は少なからず知っている。
だからこそ、凶悪事件について理解ができないという主旨の発言に対しても、素直に頷くことができない私がいました。
確かに悪い事はやってはいけないこともよくわかります。だけど……。
そんな違和感ともいえる感覚が私の中にはありました。

 私が感じる「諸悪=莫作」

ただ「諸悪=莫作」を知って思ったのです。
諸悪に対し、誰もがいつも、このような我慢をして止めているのだろうか。
必死で己の理性と欲望を戦わせて、諸悪を止めているのだろうか。
答えは、違います。理性で止めるとか止めないとかいう前に、そもそも、当たり前にやっていません。
これは、言い換えれば、睡眠と似たようなものかもしれません。
私達が眠る時の事を思い出してみてください。
眠ろう、眠ろうと意識して眠るでしょうか?
むしろ、眠ろうとすればするほど、眠れなくなってしまうでしょう。
実際の所、いつのまにか自然と眠りに入っています。いつ、どうやって、眠ったのか自分でも知りません。
本当に“当たり前”に眠っています。
不眠は人間にとって不都合な事、悪い事です。
私達は、不眠にならないよう、悪い事にならないよう、意識的に眠ろうとするわけではありません。
自然に、“当たり前”に眠ることを私達は本来知っています。
私はこれが「諸悪=莫作」の一つの形なのだと思うのです。

当たり前 ”当たり前”

現に、ネットによって生活を乱されていない今の私は、強靭な意志を得たからそうなったのかと言えば、全然そんなことありません。
しかし、今は自然とネットやゲームとお付き合いしている自分がいます。むしろ、その頃のパソコンに関する知識が、現に今、活きています。
この場で全て語り尽くす事はできませんが、もちろん、それまでの経緯は色々ありました。
ただ、そんな苦しい時に巡り合った出会いの中には、実は仏教も含まれています。
仏教エピソードとして書いている話も、実はそうなのです。
そして、私の心に響く仏教の話はどこか“当たり前”な話でした。
もちろん、仏教の話、古いお経の話なんて、今まで聞いたことありませんでした。
しかし「ああ、知ってる、知ってる。確かにそうだった」と、心のどこかでは本来知っているような、懐かしいような、そんな感覚がありました。
よくよく考えたら、諸悪莫作、衆善奉行というこの言葉も、ものすごく当たり前のことを言っているわけです。
ただそれは、決して常識とかいう当たり前ではありません。
当たり前だという当たり前でもありません。
本来、心のどこかで、自分のどこかで、当然の如く、自然の如く、備わっている“当たり前”。
知らないはずなのに、どこか懐かしさを感じる大事な“当たり前”。
その“当たり前”が、私に様々なヒントをくれました。
 “当たり前”で大事な所を知ると、自然と余計な欲望は落ちていく。そして、その結果、私の今があるのだと思います。
そしてまた、今の私があるのは、昔の経験があるからこそ、苦しかった経験があるからこそ、全ては繋がっていると思うのです。
だとすれば、昔のその頃の諸悪も、今の自分にとってかけがえのない事だったわけですから、悪いということは決してありません。むしろ、今の私には善く働いてくれています。
それも諸悪=莫作の一つの形なのでしょう。(諸悪莫作)
そして衆善=奉行の一つの形なのでしょう。(衆善奉行)
そうやって自ずと、その心は浄らかになっていく(自浄其意)
そんな“当たり前”の事、是れが諸々の仏の教え(是諸仏教)なのではないでしょうか。
福田智彰

2018年6月

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