仏教エピソード

やってみえる|仏教エピソード第36話

今回のエピソードは有名な禅問答です。師である南獄懐譲(なんがくえじょう)さんと弟子の馬祖道一(ばそどういつ)さんの師弟間の問答となります。
この話は『景徳伝灯録』にあるのですが、今回は道元禅師さんの書物を基に、以下、訳しました。

エピソード「南獄磨甎」

馬祖道一さんは、南獄懐譲さんの所に参学し、二人は仏道において親密に通じ合っていました。
馬祖さんは、南獄さんのいる伝法院に住み込み、いつも坐禅をしていました。かれこれ、もう十年余りとなります。
ある時、南獄さんが、馬祖さんのいる庵の所にやってきて、このように言いました。
「おまえさん、近頃何をしておる」
「最近、この道一、ただ坐っているだけです」
「坐禅、何を図る」
「坐禅、作仏(仏となる)を図ります」
南獄さんは、すぐに一つの瓦を持って来きました。そして、庵のそばにあった石でもって、その瓦を磨きはじめました。
馬祖さんは、それを見てすぐさまこのように言いました。
「和尚さん、何をするのです」
「瓦を磨く」
「瓦を磨いて何をするのです」
「磨いて鏡にする」
「瓦を磨く、どうして鏡になるのでしょう」
「坐禅、どうして作仏になるのだろう」
「それは何なのでしょう」
「人が車に乗るようなもの。車がもし進まないならば、車を打つのがそれか、牛を打つのがそれか」
そこで馬祖さんは応えませんでした。
すると南獄さんはこのように言いました。
「おぬしが坐禅を学べば、坐仏を学ぶとなる。もし坐禅を学べば、禅は坐り臥すことではない。もし、坐仏を学べば、仏は一定の相(すがた)ではない。
あらゆるものは留まることなく常に変わりゆく、選び取ったり切り捨てたりしない。おぬしがもし坐仏ならば、それは殺仏でもある。もし坐る相(すがた)に執らわれても、その理(こたえ)に到達点などない」
馬祖さんはこの言葉を聞いて、仏法の醍醐味を味わったのでした。
~正法眼蔵「古鏡」「坐禅箴」、永平広録第九「頌古38」~

メッセージ

何の為に坐禅をするのですか?
何故、坐禅するのですか?
何(処)を目的に坐禅するのですか?
この手の質問はよく受ける。
私は質問には必ず答えるようにしている。時には、質問の意図を問い直し、何かしらの言葉にしている。
しかし、正直に胸の内を明かすならば、この手の質問に対する応えは「さぁ?」なのである。正直、わからない。というか、答えようがないのである。
強いて言えば、こうなる。
何の為に坐禅をするのですか?
ただ坐る為に坐禅しているのである。
何故、坐禅するのですか?
坐禅したいから坐禅しているのである。
何(処)を目的に坐禅するのですか?
坐禅の目的は坐禅である。
私は昔、バックパッカーをしていたことがある。リュックサック一つ背負って、海外を旅した。トルコからヨーロッパの国々、エジプトやモロッコのあたりまで旅をした。
何の為にそんな旅をしたのか?
イギリス留学をきっかけに、他の国も観てみたくなった。違う国も宗教や文化も観てみたい。確かにそうとも思っていた。その為に旅に出たのかもしれない。
何故、そんな旅をしたのか?
でもひょっとしたら前向きな気持ち以外にも、後ろ向きな動機があったかもしれない。うまくいかないイギリス留学生活からの逃避もあったかもしれない。
何処を目的に旅をしたのか?
とりあえず、ガイドブック片手に、自分の行きたいと思った目的地に向かって旅をした。
しかし、いざ旅をはじめると、何の為に旅をするのか、何故旅をするのか、何処を目的とするのか、そんなことはどうでもよかった。
旅をすると色々な事が起る。
電車が止まることもあった。バスを乗り違えることもあった。騙されることもあった。スリにあうこともあった。ぼったくられることもあった。
車窓の景色にワクワクすることもあった。バイクの後ろに乗せて運んでもらったこともあった。助けてもらうこともあった。仲良くなっておごってもらう事もあった。サービスしてもらう事もあった。
悪い事もあったけど、良き出会いもあった。
旅は悪いと言っているわけではない。
旅は良いと言っているわけではない。
旅そのものの中に、良いも悪いもあるのだ。
そして私は旅そのものに素晴らしさを感じた。
大切な事を教えてもらった。
旅そのものが旅をする目的になった。
旅には、目的地が確かにある。
しかし、目的地にたどり着いたとしても、また次の目的地へ向かう。となると、目的地は単なる通過点でしかない。終わりはない。
たとえ目的地に辿り着かなくても、それはそれでいいのである。
何かしらのトラブルで辿り着けなかったとしても、それも大事な旅の一ページとなる。
良き人と出会い、一緒に旅をするため、目的地が変わったとしても、それも大事な旅の一ページとなる。
それもこれも全部含めて、旅の醍醐味なのだ。
何の為に旅をするのか?
ただ旅する為に旅をしているのである。
何故、旅をするのか?
旅をしたいから旅をするのである。
何処を目的に旅をするのか?
旅そのものが旅の目的なのである。
ただただやってみると自ずと見えてくる。
坐禅も同じである。
何の為にする?
何故する?
何処が目的?
如何にする?
そうじゃない。答えようがない。
強いて言えばこうなる。
〈坐禅〉の為にする。
〈坐禅〉故にする。
〈坐禅〉が目的。
〈坐禅〉のままにする。
〈何〉をする。
〈坐禅〉するのである。
福田智彰

2019年4月