経典(お経)について

お経の語源

お経の原語は、スートラ(sutra)と言い、「糸」や「紐」を意味します。

古代インドでは学術や祭式の基本を暗唱できるように、短い文章にまとめたものをスートラと呼んでいました。

仏教もこれに倣(なら)い、お釈迦さんの教えを文章にまとめたものをスートラと呼びました。

また漢語で経という言葉は、織物の「縦糸」が本来の意味となりますが、そこから物事の根本義、特に古代の聖人の言葉を指すようになりました。

中国儒教・儒学の根本典籍を経書(けいしょ)と呼ぶことから、仏典の翻訳者がこの「経」の語を「スートラ」の訳語としました。

お経の成立

お経の成立は今から約2500年前。

お釈迦さんの滅後すぐに、約500人の僧侶が集まり、結集(けつじゅう)と呼ばれる経典の編集会議が行われました。

この時、十大弟子の一人であるマハーカッサパさんを議長とし、お釈迦さんの身の回りのお世話をしていたアーナンダさんが、最もお釈迦さんの話を多く聞いていたということで、経典の編集主任を担当しました。

しかし古代インドでは、まだ文字は常用されていません。そのため、その編集方法は現代とは大きく異なります。

まず、議長のマハーカッサパの質問に対し、アーナンダが「わたしはこのように聞いた(如是我聞)」と答えます。それはお釈迦さんの説法の内容や、その場の状況・経緯などを細かに答えたものでした。

集まった僧侶はそれが本当に正しいかどうか、お互いの記憶を確認しながら検討しました。合議の上それが認められると、全員で声をそろえて誦(とな)え、暗記しました。

こうしてまるで「糸」を紡ぐかのように、お釈迦さんに纏(まつ)わるエピソードが紡ぎだされ、「経」として纏(まと)められました。

その後、お経は約数百年間、文字を使わず口頭だけによる記憶暗唱で受け継がれていきました。

以上のことから解るように、お経とは元来、弟子達がお釈迦さんから聞いた話を集めたものなのです。

お経伝来の歴史

現在、お経は文字に起こされて伝えられています。私達日本人が一般的に目にするお経のほとんどが大乗経典と呼ばれるものです。

仏教には大きく分けて二つの流れがあります。スリランカやタイなどの東南アジアに伝わった上座部仏教、そして中国や日本など東アジアに伝わった大乗仏教です。

お釈迦さん入滅のおよそ百年後には、仏教教団は分裂し、紀元前後ぐらいには大きく分けてこの二つの流れができました。

上座部仏教では、現存する中で最も古いニカーヤと呼ばれる経典のみ、お経として認めています。

しかし一方、大乗仏教では、新しい経典が次々と生み出されました。それらは大乗経典と呼ばれ、その数は膨大なものとなりました。

古代インドでは、これら経蔵(お経)以外にも、僧侶の生活規則や規範を記した律蔵、仏教の教義に対する解釈や解説を記した論蔵といった分類があり、それを三蔵と呼んでいました。

因みに西遊記でお馴染みの三蔵法師とは、元来、この経・律・論の三蔵に精通している僧のことを指します。

西遊記で三蔵法師と言えば玄奘三蔵と言われますが、玄奘さんもインドから中国へたくさんの経典を伝えた大翻訳家で、文字通り三蔵に精通した三蔵法師です。しかし、三蔵法師はその他にもたくさんいるのです。

さて、経・律・論の三蔵は後に、たくさんの僧の手によって、インドから中国に伝えられ、次第にこの三蔵全体をお経と呼ぶようになりました。そしてそれは大蔵経や一切経として纏められました。

この翻訳された経典は中国では真経と呼ばれました。真経と呼んだ理由は偽経の存在があったためです。

当時中国では経典が翻訳される過程で、仏教を根付かせるために意味の拡張や加筆が行われました。そして中には独自の経典を作り出すこともありました。

それらの経典が偽経(偽の経)と呼ばれたのは、伝統的な立場にある経典の翻訳者にとって、その経典がインドから運んだ原典であるかどうかの真偽が重要だったためです。

一方で、今まで仏教に縁のない庶民には、中国の思想や習慣が反映された偽経が広まり、仏教が中国に受容される大きな要因ともなりました。

仏教が中国・朝鮮から日本に渡ると、真経偽経と区別なく経典が伝えられました。

更に日本では中国から伝わった経典を含め、各宗派の宗祖やその教えを継ぐ祖師達の著述までもが、お経と呼ばれるようになりました。

そのため広義の意味では、仏教について書かれている物は全てお経であるとも解釈されています。

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