仏教エピソード目次
欲望を無くす、煩悩を滅する。仏教に対してそんなストイックなイメージを抱いていた私に「そんなものじゃないよ」と教えくれたのがこの話。私とっては、凝り固まっていた先入観をほぐし、仏教に対する見方を変えるきっかけとなった思い入れのあるお話です。
「ストイックに頑張ることだけが仏教ではないんだよ」ということを教えてくた話。1)福の道とはセットの話です。頑張ることは大事。休むことは大事。どっちかだけが正しいなんてことはない。「正しい」とはどういうことなのか? 今でもそれを考えさせてくれます。
「お釈迦さんって苦行によって悟りを開いたんでしょう?」いえいえ、それは大きな誤解です。確かに苦行はしましたが、お釈迦さんはその苦行を捨てました。皆さんも先入観を捨てて読んでみてください。
「毒矢の喩え」として有名なお話。いくら頭の中で考えても、わからないことはあります。とりあえずやってみることで、わかってくることもあります。やるべきことからまず行っていく。このエピソードはそのことを私に教えてくれました。
「わからないことはわからないままに」それはとても深みのある言葉です。私達はわからないことがあってあたりまえ。その当たり前に気づかなくなるほうが、かえって怖いことなのかもしれません。
自己を見つめる。そこにはいろんな自分がいる。目をそむけたくなるような自分。無意識にみないようにしている自分。自分でも驚くような自分。自分のことをわかっているつもりで、実は全然わかっていない自分もそこにいます。一番身近な自己に目を向ければ、そこにはたくさんのヒントが転がっています。
仏法だとか、仏の教え、真実や悟り。そんな言葉を聞くと何やら崇高なイメージが浮かび、私達凡人には及ばない特別なものを想像してしまいます。しかし、決して特別なものではありません。その根拠が「古道」です。
「人に仏法を伝えることより、他にやるべきことがあるんじゃないか」と私自身も、自分のやっていることに自信が無くなることがあります。でも法衣をかける私にお釈迦さんが励ましてくれます。どんな仕事も、福の田んぼに違いない。そこに布施の行がある限り。
人は生きている限り、心は動き感じます。まるで水面に波紋がおこるように、揺れ動きます。水に波が立つのはあたりまえ。心が波立つのも当たり前のこと。仏教は人間誰しもが持つ当たり前を、決して否定しているわけではありません。
考えてみれば、人に欲望があるのは当たり前。それは、井戸に水があるようなものです。もし井戸に水が無ければ、井戸はどうなるのでしょうか? もし人に欲が無ければ、人はどうなるのでしょうか?
怒ったっていいことない。わかっちゃいるけど止められない。いや、止めるって無くすことだと思ってませんか? まずは怒りを無くすことより、怒りのありように目を向けてみましょう。
「愚か」とは何か? 私がこのエピソードで紹介している最初の言葉に感銘を受けたのは、海外での生活に馴染めず、困っていた時でした。「自分は正しい。間違っていない」自分もそう決めつけて、苦しい思いをしたのを今でも覚えています。
信じるだけでは進歩は無く、疑うだけでは前進できません。信じるか、疑うか、そんなことはどっちでもいい。ただ、信じることも疑うことも学ぶ上では欠かすことができません。学ぶ者の心掛け。これが意外と難しい。
出会いだけの人生はありません。いつか別れの時がきます。別れだけの人生はありません。別れたものには必ず出会いがあったからです。一方が照らされている時は、一方は暗くなります。しかしそれは見えないだけで、決して無いわけではありません。
「結局自分のことが一番可愛い。そんなことで私達はいいのだろうか?」昔もそうやって真剣に考える人たちがいました。自分を想う事、そして他人を想う事。交わらない二つの線が、たった一つの視点を加えるだけで見事に一つとなります。
善き友を持ち、良き仲間がいるということは、修行の半ばではなく、その全てである。善い知識とは、言葉や文字で表された単なる「事柄」ではなく、本当に善い知識とはきっと「人」そのものにあるのでしょう。
当たり前の事なんだけど、当たり前なことほど気づかないものなのかもしれません。そしてその当たり前の中にこそ有り難い事、大切なことが隠されているのでしょう。そう思える根拠がこの話の中にあります。
私は善き友となろう。そして善き人々に取り囲まれるようになろう。それには何をすれば良いのだろうか。それには不放逸、つまり怠らないことが肝心です。小さなことも、大きなことに繋がっていきます。
仏教の智慧は、知恵ではありません。智慧には知恵にない意味が含まれています。知識を詰め込むだけでなく、実践を通して得ていく理解があるからこその智慧。分解すれば彗と心となる慧という字にもそのことが示されています。

このキサーゴータミーの話には学ぶべきところがたくさんありますが、その中で特に私が感銘を受けたことが、当たり前のことに気づく事で彼女が救われたことです。当たり前のことに気づく大切さを教えてくれます。
諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(七仏通戒偈)私の心に響く仏教の話はどこか“当たり前”な話でした。ただそれは、決して常識とかいう当たり前ではありません。当たり前だという当たり前でもありません。「ああ、知ってる、知ってる。確かにそうだった」と、心のどこかでは本来知っているような、懐かしいような、そんな感覚がありました。