仏教エピソード

仏教エピソード目次

第1話「福の道」

欲望を無くす、煩悩を滅する。仏教に対してそんなストイックなイメージを抱いていた私に「そんなものじゃないよ」と教えくれたのがこの話。私とっては、凝り固まっていた先入観をほぐし、仏教に対する見方を変えるきっかけとなった思い入れのあるお話です。

 
 

第2話「頑張り屋のアヌルッダさん」

 「ストイックに頑張ることだけが仏教ではないんだよ」ということを教えてくた話。1)福の道とはセットの話です。頑張ることは大事。休むことは大事。どっちかだけが正しいなんてことはない。「正しい」とはどういうことなのか? 今でもそれを考えさせてくれます。

 
 

第3話「お釈迦さんの青年時代」

「仏教ってどんな教えなの?」その答えは、このエピソードの中にあります。お釈迦さんはなぜ出家したのか。そこを考えれば自然とその答えは見えてきます。

 
 

第4話「苦行を捨てる」

「お釈迦さんって苦行によって悟りを開いたんでしょう?」いえいえ、それは大きな誤解です。確かに苦行はしましたが、お釈迦さんはその苦行を捨てました。皆さんも先入観を捨てて読んでみてください。

 
 

第5話「食いしん坊な王様」

仏教の修行は特別なものではありません。むしろ私達の身近な出来事としっかりと結びついています。例えば、食事もそのうちの一つです。

 
 

第6話「ソーナさんの琴」

中道。それは仏教を理解する上では欠かせない教えです。そしてそれは仏典を開かずとも、身のまわりのことから伝わってくる教えでもあります。

 
 

第7話「答えない」

「毒矢の喩え」として有名なお話。いくら頭の中で考えても、わからないことはあります。とりあえずやってみることで、わかってくることもあります。やるべきことからまず行っていく。このエピソードはそのことを私に教えてくれました。

 
 

第8話「答えない答え」

「わからないことはわからないままに」それはとても深みのある言葉です。私達はわからないことがあってあたりまえ。その当たり前に気づかなくなるほうが、かえって怖いことなのかもしれません。

 
 

第9話「灯火」

自己を見つめる。そこにはいろんな自分がいる。目をそむけたくなるような自分。無意識にみないようにしている自分。自分でも驚くような自分。自分のことをわかっているつもりで、実は全然わかっていない自分もそこにいます。一番身近な自己に目を向ければ、そこにはたくさんのヒントが転がっています。

 
 

第10話「古城に至る道」

仏法だとか、仏の教え、真実や悟り。そんな言葉を聞くと何やら崇高なイメージが浮かび、私達凡人には及ばない特別なものを想像してしまいます。しかし、決して特別なものではありません。その根拠が「古道」です。

 
 

第11話「福田(ふくでん)」

「人に仏法を伝えることより、他にやるべきことがあるんじゃないか」と私自身も、自分のやっていることに自信が無くなることがあります。でも法衣をかける私にお釈迦さんが励ましてくれます。どんな仕事も、福の田んぼに違いない。そこに布施の行がある限り。

 
 

第12話「第二の矢」

人は生きている限り、心は動き感じます。まるで水面に波紋がおこるように、揺れ動きます。水に波が立つのはあたりまえ。心が波立つのも当たり前のこと。仏教は人間誰しもが持つ当たり前を、決して否定しているわけではありません。

 
 

第13話「水と欲」

考えてみれば、人に欲望があるのは当たり前。それは、井戸に水があるようなものです。もし井戸に水が無ければ、井戸はどうなるのでしょうか? もし人に欲が無ければ、人はどうなるのでしょうか?

 
 

第14話「怒ったっていいことない」

怒ったっていいことない。わかっちゃいるけど止められない。いや、止めるって無くすことだと思ってませんか? まずは怒りを無くすことより、怒りのありように目を向けてみましょう。

 
 

第15話「怒りの炎」

炎と炎とが交われば、結局は大きくなってしまうだけ。怒りの炎が大きくなればなるほど、自分を見失ってしまいます。それを防ぐにはまず、「忍耐」しかないのでしょうね。

 
 

第16話「愚か」

「愚か」とは何か? 私がこのエピソードで紹介している最初の言葉に感銘を受けたのは、海外での生活に馴染めず、困っていた時でした。「自分は正しい。間違っていない」自分もそう決めつけて、苦しい思いをしたのを今でも覚えています。

 
 

第17話「筏の如く」

「筏を担ぐ人?」「そんな奴いるわけがない!」いやいや、誰もがやってしまいがちなんです。筏と仏の教え。仏教ならではのエピソードをご紹介します。

 
 

第18話「学びの秘訣」

信じるだけでは進歩は無く、疑うだけでは前進できません。信じるか、疑うか、そんなことはどっちでもいい。ただ、信じることも疑うことも学ぶ上では欠かすことができません。学ぶ者の心掛け。これが意外と難しい。

 
 

第19話「愛と苦しみ」

出会いだけの人生はありません。いつか別れの時がきます。別れだけの人生はありません。別れたものには必ず出会いがあったからです。一方が照らされている時は、一方は暗くなります。しかしそれは見えないだけで、決して無いわけではありません。

 
 

第20話「自他を想う」

「結局自分のことが一番可愛い。そんなことで私達はいいのだろうか?」昔もそうやって真剣に考える人たちがいました。自分を想う事、そして他人を想う事。交わらない二つの線が、たった一つの視点を加えるだけで見事に一つとなります。

 
 

第21話「許す」

心が黒いだけの人間もいなければ、白いだけの人間もいない。争いを起こすのは何も人間の黒さだけとは限りません。人間の白さもまた争いを生む原因となりうること教えてくれました。

 

第22話「善き友」

善き友を持ち、良き仲間がいるということは、修行の半ばではなく、その全てである。善い知識とは、言葉や文字で表された単なる「事柄」ではなく、本当に善い知識とはきっと「人」そのものにあるのでしょう。

 

第23話「縁りて起こる」

当たり前の事なんだけど、当たり前なことほど気づかないものなのかもしれません。そしてその当たり前の中にこそ有り難い事、大切なことが隠されているのでしょう。そう思える根拠がこの話の中にあります。

 

第24話「国王の疑問」

私は善き友となろう。そして善き人々に取り囲まれるようになろう。それには何をすれば良いのだろうか。それには不放逸、つまり怠らないことが肝心です。小さなことも、大きなことに繋がっていきます。

 

第25話「犀の角のように」

自分はただ独りだけ。他に変わるものなどない。それでいて、自分は決して独りでいるわけではない。犀の角のように。

 

第26話「あらゆるものは変わりゆく」

春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえですずしかりけり。あらゆるものは変わりゆく、この世に常なるものはなし。

 

第27話「賢い兄と愚かな弟」

仏教の智慧は、知恵ではありません。智慧には知恵にない意味が含まれています。知識を詰め込むだけでなく、実践を通して得ていく理解があるからこその智慧。分解すれば彗と心となる慧という字にもそのことが示されています。

 

第28話「琴の音色」

無我というのは「我が無い」のではありません。「我が無い」だと、琴の音色を欲した王様のようなことになってしまうかもしれません。無我というのは「我で無い」のです。

 

第29話「拠り所」

悟りを開いてまだ間もない頃、お釈迦さんはある葛藤を抱いていました。それは拠り所について。これも法の探る一つの手がかりではないでしょうか。

 

第30話「法を伝える」

悟りを開いてまだ間もない頃、お釈迦さんはある葛藤を抱いていました。それは伝えるかどうかについて。この葛藤こそが、法の伝わり、その始まりなのではないでしょうか。

 

第31話「最期の言葉」

「白大衆、生死事大、無常迅速、各宜醒覚、慎勿放逸」と木版に書かれています。木版が鳴る音を聞くと、私の頭の中には、お釈迦さんの最期の言葉が思い浮かぶことがあります。

 

第32話「最初の説法」

お釈迦さんの本当に最初の最初の説法は、大失敗に終わりました。私も最初の説法と言えば、サールナートでの説法だと思っていましたが、成功の裏にはこのような失敗があったわけです。

 

第33話「四の馬」

仏教、特に禅では、必ず「生死」と言います。一生と「生」だけでは言いません。「生」と「死」は切っても切り離せない。仏教では「死」を考えることは避けて通れない道です。

 

第34話「子供を亡くした母親キサーゴターミー」

このキサーゴータミーの話には学ぶべきところがたくさんありますが、その中で特に私が感銘を受けたことが、当たり前のことに気づく事で彼女が救われたことです。当たり前のことに気づく大切さを教えてくれます。

 

第35話「大事な当たり前」

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(七仏通戒偈)私の心に響く仏教の話はどこか“当たり前”な話でした。ただそれは、決して常識とかいう当たり前ではありません。当たり前だという当たり前でもありません。「ああ、知ってる、知ってる。確かにそうだった」と、心のどこかでは本来知っているような、懐かしいような、そんな感覚がありました。