随想録

鬼と語らう

今年の主役のお猿さんと鬼。豆まきが終わった後でしょうか? それとも桃太郎との鬼退治が終わった後でしょうか?
豆まきでは、鬼は外。桃太郎では、鬼退治。悪者の代名詞とも言える鬼。でもそんな敵役とも、事が収まれば、温泉に入って乾杯。
なんかこういうの、私は好きです。
鬼と言えば、先日、広場で鬼ごっこをしている子供達を見かけました。鬼から逃げる方とそれを追いかける鬼の方と。しばらく見ていると、鬼がようやく一人を捕まえました。
タッチで鬼交代……、と思いきや、タッチされて交代するはずの鬼は、追いかけることもせず、その場でブラブラ。
逃げる方が、「来いや!」と叫んでも、鬼は追いかけようとする様子もありません。
仕舞いには、鬼は鬼ごっことは別の遊びを一人で始めてしまいました。そうなってしまうと、もはや鬼ごっこは成立しません。
実は鬼って、鬼ごっこにとって欠かせない、とても重要な役回りなんですよね。
自分が子供の頃を思い出しても、確かに一般的に「鬼」と言えば、悪者のイメージ。私は足が遅かったこともあり、追いかける鬼の方は嫌でした。
しかし、鬼の役は嫌でもまわってきます。どんなに足が速い子でも、なる時はなってしまいます。でも鬼になったら、あれやこれや考えて、捕まえる。
嫌だと思っていた鬼でも、そうして、いざ鬼の役が回ってきたら、きたらで、追いかける楽しみもあったのも事実です。
私達の日常の中でも、嫌なことをしなければいけない事は必ずあります。
そこで投げ出してしまうことは簡単ですが、そういう役回りがあるということは、全体から見れば欠かせない大事な役目なのかもしれません。
鬼ごっこと同じように。
たとえ嫌だと思っている役回りでも、いざやってみると、そこから学ぶことがある。そして、またそこからきっと楽しみを見出すこともできる。
しかし、もし投げ出してしまったら、誰も何もしなければ、成立しなくなってしまう。
それは鬼ごっこという遊びができなくなってしまうように、なんだか勿体ない気がしてなりません。
もちろん「嫌な事を進んでしろ」なんて事は、私からは到底言えません。仮にそうだとしても、ずっと鬼が同じでも、それはそれで問題ですから。
ただ、そういう嫌な役回りは必ずあって、そこから見出せる事も必ずある。
そう考えると、嫌な面、自分にとっての悪ものである「鬼」と語らうのは、大事な事だと思うのです。
だからなんでしょうかね? 私がこういうのが好きなのは。
福田智彰

2016年2月


ひょっとしたらこの話と通じる所があるかもしれません。 仏教エピソード 第3話「お釈迦さんの青年時代」