古文書

荒村寺の歴史

行者堂(戦国時代)

荒村寺に伝わる古文書によれば、その歴史は、有岡城が落城した1578年、戦国時代まで遡ります。役行者像が祀られる行者堂が、お寺が建てられる以前からずっとありました。この行者堂がいつ建てられたのかは、よくわかっていません。 
行者とは、山の中をひたすら歩き修行する修験道の実践者のこと言います。修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)の行者像が、その弟子の義角によって作られました。
現在でも荒村寺の行者堂には、この役行者像が祀られています。
役行者像

行者堂に安置されている役行者像

 

城山庵(江戸時代)

その後、江戸時代の寛政年間(1789~1800年)に、和尚さんが一時的に滞在するための庵室が、酒屋であった木綿屋徳三郎という人物によって建造されました。当時、伊丹は酒造りの町で、1800年頃がその最盛期でした。木綿屋の酒は江戸積銘酒番付(江戸時代のお酒の順位付け)に前頭筆頭として載っているほどだと言われています。
その伊丹郷町の木綿屋徳三郎は深く禅宗に帰依していました。郷町の堺町にあった閑室に嘯山虎渓和尚を招いて参禅していました。それが縁となって彼は庵室を造りました。その時に現在の荒村寺の本尊様である十一面観音菩薩が安置されたと古文書に記されています。
また当時、庵室付近の地は伊丹字古城と呼ばれ、有岡城跡の一部でした。そのためか、人々から城山庵と呼ばれていました。
荒村庵由緒

荒村寺の歴史が書かれた古文書「荒村庵由緒」

 

荒村庵(江戸時代)

城山庵は、越後国(現在の新潟)の一妙法國尼を招き、その尼僧さんによって守られていました。後に伊丹の有岡城跡に移されました。
その昔、有岡城は戦国武将であった荒木村重を城主としていました。しかし、戦国時代(1578年)に織田信長に謀反の疑いをかけられ滅ぼされました。
庵室は有岡城跡に場所を移したのを機に、この荒木村重の古城跡の由緒により、城山庵から荒村庵へと名を改めました。これが現在の寺号、荒村寺の元となりました。
また荒村庵と名を改めたのは、荒木村重の菩提を弔うためとも言われています。荒村寺には荒木村重の位牌が、現在祀られています。
荒木村重の位牌

荒木村重の位牌

 

古城山荒村寺(近代)

戦国時代に信長によって有岡城が廃城となってからも、城下町の一部はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。その町の人々は、その昔本城があった場所を古城山と呼んでいたそうです。
そして明治26年(1893年)、鉄道(現在のJR宝塚線)が開通されたことにより、城跡の東側が削り取られました。昭和25年(1950年)、法地開山(独立したお寺としての資格を持つこと)を機に荒村庵は、山号を古城山とし、寺院名を荒村寺としました。
その後、昭和50年(1976年)の伊丹市の都市計画により、有岡城跡(現在フランドルの鐘が建っている場所)から50メートルほど離れた現在の場所に移転しました。
移転前の荒村寺の写真

移転前の荒村寺。右手には伊丹駅が見えます。

仏教の話の中には、山号の古城に関するこんなエピソードがあります。仏教エピソード第10話「古城に至る道」のページはこちら